2005年01月30日
北のゼロ年
何年ぶりかなぁ~映画をみるのは・・・確かタイタニック以来映画を見ていなかった。
久しぶりに今夜「北の零年」という大河映画をシネマで観てきた。
今月 行定勲監督、吉永小百合と共演者の舞台挨拶を含めて沖縄先行上映となった。
なぜ 北の映画を沖縄先行上演したのか、いまだ監督の真意は分からない、
ただ、沖縄も苦難の歴史を乗り越え厳しく生き抜いて来た背景に共通性があると考えたのか? 最北と最南どちらも日本の開発発展の為防波堤になって来たことにアイディンティティーを感じ、観てもらいたい観念からか?
何はともあれ沖縄が全国に先駆けて上映された事だけは確かだ。
昨年5月ライブで札幌に訪れた際、小林君に北海道開拓村に連れて行って貰った。厳しい寒さの中を先人達のパイオニア精神と将来日本の夢をみて開拓したお陰で今の北海道があるのを垣間見ることが出来て開拓村はたいへん勉強になった。その夜のライブでも開拓当時歌われたと思われる「北海タント節」を恥を忍んで本場で歌わせて貰った。
♪ハァ~十に豊栄お国の宝庫 拓け山から 港から 日本狭しと言うけれど見せたい我等の北海道 海幸 山幸 タント タント あいのこじょうさく そのわけだんよ~
<タント節は青森、秋田にもある、きっとそこの出身者たちが北海道風に作ったのであろう。タントの囃子言葉は労作業しながら藁を打つ音、つまり擬声音である>
さて 映画の北の零年は激動の明治維新後四国淡路の稲田家は流刑の形で明治政府から稲田家を含め武士集団546名が原野の北海道・静内に移住を命じられた。原野に鍬をいれ作物は作るが不作凶作、人と人の軋轢、政府圧力にも負けずに「夢を信じればかならず叶えられる」「ゼロからの出発」と苦難を乗り越え大地に根を下ろしていく開拓精神が見事なまでに表現され史実に基づいて作られた長編超大作だ。
詳しい内容は皆さんがシアターに足を運んでのお楽しみというところでしょうが、これから観る人にはたいへん悪いが正直言って小生は期待外れの場面が多かった。(細かい所作や展開・他)でも この映画は多重音響で迫力ある大自然のパノラマは銀幕で味わってもらいたい映画ではある。
断っておくが 小生は別に小百合スト、渡辺謙のファンでもなければなんでもない、ただ札幌のネットの人たちは沖縄の歴史や唄を学んでいるのにウチナーン人も他府県の歴史や文化を学ぶ必要があるのではないか。単純な発想ではあるが、とかく啓蒙心も含めて観たい映画ではあった。
開拓といえば小生の教室は今「崎山節」最高賞の課題曲をべんきょうしていますが。この崎山節も人頭税の時代尚寧王4年、宝暦5年(1755)に開拓で創建された時代に生まれた唄です。
水も豊富、土地も肥沃で人民の居住、農耕に適していた土地であり、湊も広く、船の出入れや停泊にも便利、という事で琉球王府は崎山に目をつけた。他にも新村政策でどんどん新しい村を作り生産を増やそう、人頭税の増税を目論見た。しかし そこには台風、不作、マラリア、飢餓が待っていた。同村は太平洋戦争の昭和20年廃村になる。新村創建集落では一番長く190年も続いた。
♪崎山ゆ新村ゆ立てぃだす、如何ぬ故ぬつぃにゃんどぅ立てだす。
<崎山という地に新しい村を立てた。如何なる訳で立てたのですか>
♪野浜口 兼久地ぬ ゆやんどぅ 波照間ぬ 下八重山ぬ内から
<野浜河口に兼久という良港があったから、 波照間からも別けられた>
♪女ぬ子百 男子八十 別ぎられ 誰どぅ誰 何りどぅ何りで思うだら
<女が百人、男が八十人別けられた。誰々が誰、と心配したよ>
♪我ぬどぅ我ぬ くりどぅくり 別ぎられ たんでぃとーどぅ美御前とーどぅ主ぬ前
<私も移住者です、 どうかお役人さま・・・許してくださいと続く>
血の叫ぶような強烈な「崎山節」は自分の島を離れアキラメきれない島人がゆくい頂(頂上)にのぼり故郷をしのびながら八重山の将来を夢にみて創建してきた苦労は計り知れない苦難な道があったであろう。八重山の唄も新村政策、強制移住、人頭税をしらずして語る無かれ、である。北の大地の零年をみて先人達が伏せこんだ種が生え肥やしがあったから今の繁栄をもたらしたと信じたい。
それにしても 吉永小百合はいい歳していても キレイだなぁ~不思議な魅力だね、しなやかで りんとしていて、日本の奥ゆかしい美をもっていて ファンになりました。
今日から小百合ストになろう。。。
久しぶりに今夜「北の零年」という大河映画をシネマで観てきた。
今月 行定勲監督、吉永小百合と共演者の舞台挨拶を含めて沖縄先行上映となった。
なぜ 北の映画を沖縄先行上演したのか、いまだ監督の真意は分からない、
ただ、沖縄も苦難の歴史を乗り越え厳しく生き抜いて来た背景に共通性があると考えたのか? 最北と最南どちらも日本の開発発展の為防波堤になって来たことにアイディンティティーを感じ、観てもらいたい観念からか?
何はともあれ沖縄が全国に先駆けて上映された事だけは確かだ。
昨年5月ライブで札幌に訪れた際、小林君に北海道開拓村に連れて行って貰った。厳しい寒さの中を先人達のパイオニア精神と将来日本の夢をみて開拓したお陰で今の北海道があるのを垣間見ることが出来て開拓村はたいへん勉強になった。その夜のライブでも開拓当時歌われたと思われる「北海タント節」を恥を忍んで本場で歌わせて貰った。
♪ハァ~十に豊栄お国の宝庫 拓け山から 港から 日本狭しと言うけれど見せたい我等の北海道 海幸 山幸 タント タント あいのこじょうさく そのわけだんよ~
<タント節は青森、秋田にもある、きっとそこの出身者たちが北海道風に作ったのであろう。タントの囃子言葉は労作業しながら藁を打つ音、つまり擬声音である>
さて 映画の北の零年は激動の明治維新後四国淡路の稲田家は流刑の形で明治政府から稲田家を含め武士集団546名が原野の北海道・静内に移住を命じられた。原野に鍬をいれ作物は作るが不作凶作、人と人の軋轢、政府圧力にも負けずに「夢を信じればかならず叶えられる」「ゼロからの出発」と苦難を乗り越え大地に根を下ろしていく開拓精神が見事なまでに表現され史実に基づいて作られた長編超大作だ。
詳しい内容は皆さんがシアターに足を運んでのお楽しみというところでしょうが、これから観る人にはたいへん悪いが正直言って小生は期待外れの場面が多かった。(細かい所作や展開・他)でも この映画は多重音響で迫力ある大自然のパノラマは銀幕で味わってもらいたい映画ではある。
断っておくが 小生は別に小百合スト、渡辺謙のファンでもなければなんでもない、ただ札幌のネットの人たちは沖縄の歴史や唄を学んでいるのにウチナーン人も他府県の歴史や文化を学ぶ必要があるのではないか。単純な発想ではあるが、とかく啓蒙心も含めて観たい映画ではあった。
開拓といえば小生の教室は今「崎山節」最高賞の課題曲をべんきょうしていますが。この崎山節も人頭税の時代尚寧王4年、宝暦5年(1755)に開拓で創建された時代に生まれた唄です。
水も豊富、土地も肥沃で人民の居住、農耕に適していた土地であり、湊も広く、船の出入れや停泊にも便利、という事で琉球王府は崎山に目をつけた。他にも新村政策でどんどん新しい村を作り生産を増やそう、人頭税の増税を目論見た。しかし そこには台風、不作、マラリア、飢餓が待っていた。同村は太平洋戦争の昭和20年廃村になる。新村創建集落では一番長く190年も続いた。
♪崎山ゆ新村ゆ立てぃだす、如何ぬ故ぬつぃにゃんどぅ立てだす。
<崎山という地に新しい村を立てた。如何なる訳で立てたのですか>
♪野浜口 兼久地ぬ ゆやんどぅ 波照間ぬ 下八重山ぬ内から
<野浜河口に兼久という良港があったから、 波照間からも別けられた>
♪女ぬ子百 男子八十 別ぎられ 誰どぅ誰 何りどぅ何りで思うだら
<女が百人、男が八十人別けられた。誰々が誰、と心配したよ>
♪我ぬどぅ我ぬ くりどぅくり 別ぎられ たんでぃとーどぅ美御前とーどぅ主ぬ前
<私も移住者です、 どうかお役人さま・・・許してくださいと続く>
血の叫ぶような強烈な「崎山節」は自分の島を離れアキラメきれない島人がゆくい頂(頂上)にのぼり故郷をしのびながら八重山の将来を夢にみて創建してきた苦労は計り知れない苦難な道があったであろう。八重山の唄も新村政策、強制移住、人頭税をしらずして語る無かれ、である。北の大地の零年をみて先人達が伏せこんだ種が生え肥やしがあったから今の繁栄をもたらしたと信じたい。
それにしても 吉永小百合はいい歳していても キレイだなぁ~不思議な魅力だね、しなやかで りんとしていて、日本の奥ゆかしい美をもっていて ファンになりました。
今日から小百合ストになろう。。。
Posted by 大工哲弘 at
23:43
2005年01月30日
鉄車・楔

北海道開拓当時使われた荷車の車輪
昨年夏、北海道何年も通いをしたけれど 始めて小林教室のメンバーに連れて行って貰って
観光をした「北海道開拓村」で見つけた荷車の車輪の楔
♪車や三寸ぬ楔しどぅ 千里ぬ道ん走り巡る 人や三寸ぬ舌しどぅ大人や食い捨てぃ
<車輪の軸をとめる三寸の楔はしっかり留めると千里の道も走る事ができる、
しかし人の三寸の舌は人をだますこともできる>
(札幌教室のメンバーは若いがゆえに ほとんど荷車の楔を知らなかった)
テツの中学時代まで石垣でもまだ車輪だけは「鉄車・かにぐるま」として 活躍していた。
とぅばらーま はこのかに車を馬に引かすと鉄馬車になり それに乗りながら歌うと風情がでますよ~
Posted by 大工哲弘 at
21:56
2005年01月22日
蛸
新春早々から震災の話題が続いたので ここいらで柔らかく
八重山の島唄に『くいぬ頂』というのがある。
♪くいぬぱな登てぃ浜先ゆ見れば まかが布晒し見ものでむぬ
♪大石に登てぃ前千瀬ゆ見れば 松が蛸捕りや面白きょうがい
♪松が捕たる蛸やクヤーマにうち渡ち うる石とぅ添えて渡しゃるきにゃよ
♪側に立ちゅる者や悋気なモノやりば 鍋とまかい添えてぃ打ち割たきにゃよ
くいぬぱな(地名)に登って浜先を見れば まかー(人名)が布を晒すのは見事だ。
大石に上って前のリーフをみれば松(人名)が蛸を捕っている様子は面白くて滑稽だ。
松が蛸捕ったのを彼女のクヤーに 器用に蛸をそっとプレゼントしている。
側にいた本妻がそれを見て狂乱し鍋も飯碗も割ってしまった。
新城島の古い島唄なのにすごくリアルで生活感にあふれて面白い。
今の時期 八重山では小蛸のウムズナー(いいだこ)がバンジ(最盛期)な筈なのに今年は不猟で
「てっちゃんに送れないさぁ~」と毎年この時期ななると八重山の鳩間島の公民館館長(宮古民謡歌手・国吉源次の弟子)の仲宗根豊が小生に贈って貰うウムズナーシーズンだが「最近 地球温暖化にがなっているかね~」と豊が嘆いていた。
勿論 小生が蛸好物だと知ってのことで、今年はイナムヌ(残念)で八重山のウムズナーはあきらめることにした。
小生が全国回って旨い蛸のベスト3というのがある。一番は北海道稚内、二番は岡山の下津井、三番は兵庫の明石蛸と決め付けている。(しかし この順番はその地で変わる事がある)
上京した時のお土産は東京バナナではなしに羽田空港ターミナル・モノレール改札口の横に北海道のアンテナショップがあって そこの真蛸を必ず買って帰るくらい大好き定番の東京蛸土産になっている。
湯がいても、山葵和え、てんぷらしても そのまま刺身にしても真蛸は珍味である。「烏賊は味、蛸はかおり」と言われているが、どっちも小生は好物だ、どっちにするか?と言われるとヌメリとした舌触りと歯ごたえのあるしつこさの蛸に小生は軍配を上げる。
八重山・石垣の言葉に「シビゥニシャーン」という表現があるが、柔らかくて弾力性があって尚且つ しつこいと「烏賊や蛸のように」咀嚼するとき使うが、残念ながら いまはもう死語になっている島ムニ(言葉)だ。
これからも島歌を歌っていく上で声の出し方、ブレスの持ち方は 「シビゥニシャーン」と言われるようになれればいいなぁ~と思う。 人生はしつこく生きたくはないが、歌声だけは 柔らかく弾力性を持ち、蛸のように香りを放ち 烏賊の様に味を持つ 歌を唱いたい。
声だけは持ちようによって老いないのだから・・・
今年も蛸ベスト3の地に行く機会があるだろうか? 岡山に行ったら きっと下津井が一番!と言うかも知れない。
八重山の島唄に『くいぬ頂』というのがある。
♪くいぬぱな登てぃ浜先ゆ見れば まかが布晒し見ものでむぬ
♪大石に登てぃ前千瀬ゆ見れば 松が蛸捕りや面白きょうがい
♪松が捕たる蛸やクヤーマにうち渡ち うる石とぅ添えて渡しゃるきにゃよ
♪側に立ちゅる者や悋気なモノやりば 鍋とまかい添えてぃ打ち割たきにゃよ
くいぬぱな(地名)に登って浜先を見れば まかー(人名)が布を晒すのは見事だ。
大石に上って前のリーフをみれば松(人名)が蛸を捕っている様子は面白くて滑稽だ。
松が蛸捕ったのを彼女のクヤーに 器用に蛸をそっとプレゼントしている。
側にいた本妻がそれを見て狂乱し鍋も飯碗も割ってしまった。
新城島の古い島唄なのにすごくリアルで生活感にあふれて面白い。
今の時期 八重山では小蛸のウムズナー(いいだこ)がバンジ(最盛期)な筈なのに今年は不猟で
「てっちゃんに送れないさぁ~」と毎年この時期ななると八重山の鳩間島の公民館館長(宮古民謡歌手・国吉源次の弟子)の仲宗根豊が小生に贈って貰うウムズナーシーズンだが「最近 地球温暖化にがなっているかね~」と豊が嘆いていた。
勿論 小生が蛸好物だと知ってのことで、今年はイナムヌ(残念)で八重山のウムズナーはあきらめることにした。
小生が全国回って旨い蛸のベスト3というのがある。一番は北海道稚内、二番は岡山の下津井、三番は兵庫の明石蛸と決め付けている。(しかし この順番はその地で変わる事がある)
上京した時のお土産は東京バナナではなしに羽田空港ターミナル・モノレール改札口の横に北海道のアンテナショップがあって そこの真蛸を必ず買って帰るくらい大好き定番の東京蛸土産になっている。
湯がいても、山葵和え、てんぷらしても そのまま刺身にしても真蛸は珍味である。「烏賊は味、蛸はかおり」と言われているが、どっちも小生は好物だ、どっちにするか?と言われるとヌメリとした舌触りと歯ごたえのあるしつこさの蛸に小生は軍配を上げる。
八重山・石垣の言葉に「シビゥニシャーン」という表現があるが、柔らかくて弾力性があって尚且つ しつこいと「烏賊や蛸のように」咀嚼するとき使うが、残念ながら いまはもう死語になっている島ムニ(言葉)だ。
これからも島歌を歌っていく上で声の出し方、ブレスの持ち方は 「シビゥニシャーン」と言われるようになれればいいなぁ~と思う。 人生はしつこく生きたくはないが、歌声だけは 柔らかく弾力性を持ち、蛸のように香りを放ち 烏賊の様に味を持つ 歌を唱いたい。
声だけは持ちようによって老いないのだから・・・
今年も蛸ベスト3の地に行く機会があるだろうか? 岡山に行ったら きっと下津井が一番!と言うかも知れない。
Posted by 大工哲弘 at
19:59
2005年01月17日
1月17日・2 満月の夕べ
大阪三線クラブが好んで歌う歌に「満月の夕べ」がある。
その歌はソールフラワーモノノケサミットの中川敬が実際阪神淡路神戸震災の体験の中から作詞、作曲した曲である。
そして被災地へ「何かせにゃ~」と電気楽器からアコースティクの楽器に持ち替え出前ライブを続けながら歌ってきた「満月の夕べ」が話題になった。
今日(17日)もこれまでライブを続けていた神戸(長田町)の神社で「つづらおりの宴in KOBE NAGATA」に多彩なアーチストを迎えて鎮魂を込めてコンサートを演るという。
ご成功をお祈りしております。
♪星が降る 満月が笑う 焼け跡を包むようにおどる風
解き放たれすべてを笑う 乾く冬の夕べ
さて 小生が此処で気になるのが『満月』である。
阪神淡路震災のちょうど一年前(1994年)まったく同じ日1月17日、満月の日(旧暦の15日)にアメリカのロスアンゼルス(ノースリッジ)で都市型地震が午前4時31分発生したことを覚えているでしょうか?
その一周年を迎えようと準備している矢先の1995年1月17日(午前5時過ぎ)に阪神淡路の地震が発生した時も「満月の夕べ」で歌われているように赤い月といわれる程不気味に「満月」が冬の空に映えていたそうです。
♪ヤサホーヤ うたがきこえる 眠らずに朝まで踊る
ヤサホーヤ 焚き火を囲む 吐く息の白さが踊る
解き放て 命を笑え 満月の夕べ
満月の興味は募り調べてみた。
1923年(大正12年)9月1日に死者、行方不明者合わせると14万人あまりの犠牲者を出した関東大震災のときも 満月だったと思われる裏づけた歌がある。
関東大震災直後 添田さつきさんが作詩した「復興節」という歌詩にもお月さんが
♪家は焼けても江戸っ子の 意気は消えない見ておくれ
アラマ オヤマ タチマチ並んだバラックに 夜は寝ながら お月さん 眺めて エェゾ エェゾ 帝都復興 エェゾ エェゾ~
震災で関東中が荒廃していた人々の心を元気にさせようと 地震を揶揄しながら語る「復興節」は当時のパワーを感じてうれしい。
復興節は小生も「ジンターナショナル」でカバーしてます(参考まで)
与謝野晶子歌集にも
★空にのみ きりつ登りて 陽がしずみ 廃墟の上の月が上りて
(関東大震災のとき読まれたと言われている)ー大池功さんから教えてもらいましたー
そして極め付きは 昨年新潟中越地震の日は旧暦9月の満月であった。
スマトラ沖で起きた巨大地震の日も2004年最後の満月であった。
そのことはまったく偶然なのか??
僕みたいな素人には詳しくは分からないが、ただ月が大好き人間として「月と天災」を検証し「復興節」や「満月の夕べ」の歌を通して「歌は世(時)を映す鏡」と言われ 歌い継がれてきた内容や情景を調べて行くにつれて 無視できないという心境になった。
話は逸れるかもしれませんが 元々日本が使用していた暦は太陰太陽暦であったが明治6年(1872)から近代国家を目指す日本は新暦いわば太陽暦を採用し使うようになった。
しかし沖縄は歴史上 中国とは密接な関係があった故に今でも旧暦に基づいてシチビシチビ(各行事)が営まれて根付いている。元来日本も伝統的な行事は旧暦で形成されていることを考えてみると、もう一度旧暦(月の満ち欠けによる太陰太陽暦)を見直してみる必要性があるのではと、勝手に思ってみたりもするが・・・ 月を怒らさないためにも
地震・津波大国日本は 何時どこで起きるか分からない天災。 いろんな情報が必要とされている。
因みに今日17日は旧暦12月8日・先勝
沖縄の旧暦の行事・ムーチー(力餅)ビーサー(寒さ)の日です。
1月17日、心から震災でなくなった人々の御霊に鎮魂の意を捧げたい。合掌
その歌はソールフラワーモノノケサミットの中川敬が実際阪神淡路神戸震災の体験の中から作詞、作曲した曲である。
そして被災地へ「何かせにゃ~」と電気楽器からアコースティクの楽器に持ち替え出前ライブを続けながら歌ってきた「満月の夕べ」が話題になった。
今日(17日)もこれまでライブを続けていた神戸(長田町)の神社で「つづらおりの宴in KOBE NAGATA」に多彩なアーチストを迎えて鎮魂を込めてコンサートを演るという。
ご成功をお祈りしております。
♪星が降る 満月が笑う 焼け跡を包むようにおどる風
解き放たれすべてを笑う 乾く冬の夕べ
さて 小生が此処で気になるのが『満月』である。
阪神淡路震災のちょうど一年前(1994年)まったく同じ日1月17日、満月の日(旧暦の15日)にアメリカのロスアンゼルス(ノースリッジ)で都市型地震が午前4時31分発生したことを覚えているでしょうか?
その一周年を迎えようと準備している矢先の1995年1月17日(午前5時過ぎ)に阪神淡路の地震が発生した時も「満月の夕べ」で歌われているように赤い月といわれる程不気味に「満月」が冬の空に映えていたそうです。
♪ヤサホーヤ うたがきこえる 眠らずに朝まで踊る
ヤサホーヤ 焚き火を囲む 吐く息の白さが踊る
解き放て 命を笑え 満月の夕べ
満月の興味は募り調べてみた。
1923年(大正12年)9月1日に死者、行方不明者合わせると14万人あまりの犠牲者を出した関東大震災のときも 満月だったと思われる裏づけた歌がある。
関東大震災直後 添田さつきさんが作詩した「復興節」という歌詩にもお月さんが
♪家は焼けても江戸っ子の 意気は消えない見ておくれ
アラマ オヤマ タチマチ並んだバラックに 夜は寝ながら お月さん 眺めて エェゾ エェゾ 帝都復興 エェゾ エェゾ~
震災で関東中が荒廃していた人々の心を元気にさせようと 地震を揶揄しながら語る「復興節」は当時のパワーを感じてうれしい。
復興節は小生も「ジンターナショナル」でカバーしてます(参考まで)
与謝野晶子歌集にも
★空にのみ きりつ登りて 陽がしずみ 廃墟の上の月が上りて
(関東大震災のとき読まれたと言われている)ー大池功さんから教えてもらいましたー
そして極め付きは 昨年新潟中越地震の日は旧暦9月の満月であった。
スマトラ沖で起きた巨大地震の日も2004年最後の満月であった。
そのことはまったく偶然なのか??
僕みたいな素人には詳しくは分からないが、ただ月が大好き人間として「月と天災」を検証し「復興節」や「満月の夕べ」の歌を通して「歌は世(時)を映す鏡」と言われ 歌い継がれてきた内容や情景を調べて行くにつれて 無視できないという心境になった。
話は逸れるかもしれませんが 元々日本が使用していた暦は太陰太陽暦であったが明治6年(1872)から近代国家を目指す日本は新暦いわば太陽暦を採用し使うようになった。
しかし沖縄は歴史上 中国とは密接な関係があった故に今でも旧暦に基づいてシチビシチビ(各行事)が営まれて根付いている。元来日本も伝統的な行事は旧暦で形成されていることを考えてみると、もう一度旧暦(月の満ち欠けによる太陰太陽暦)を見直してみる必要性があるのではと、勝手に思ってみたりもするが・・・ 月を怒らさないためにも
地震・津波大国日本は 何時どこで起きるか分からない天災。 いろんな情報が必要とされている。
因みに今日17日は旧暦12月8日・先勝
沖縄の旧暦の行事・ムーチー(力餅)ビーサー(寒さ)の日です。
1月17日、心から震災でなくなった人々の御霊に鎮魂の意を捧げたい。合掌
Posted by 大工哲弘 at
02:33
2005年01月16日
1月17日 ・ 1
今年も1月17日がやってくる。
痛ましい阪神淡路地区大震災から明日で10年目の節目を迎える。
その為 マスコミ各社は「震災から10年」という特別番組を組んで放送されているのはきっと風化させないようにと
思いを込めて企画されたであろう。
壊滅的な打撃を受けながら よくぞ立ち直った街の復興様子や人間模様を制作された内容の番組が多い。
しかし我々は阪神淡路の震災から学んだものや得たものも多かった。
それは人と人との「絆」であった。
悲惨な地震の後救われる思いがしたのは全国から多く集まったボランティア達や義援金、救助物資であった。
同じ年ボランティアの果たす役割が重要視され内務省の閣僚閣議了解により1月17日をボランティアの日、
1月15日~21日までを また防災とボランティア週間と制定されたそうです。
♪御万人(うまんちゅ)の為ん 我が為とぅ思てぃ 肝勇み 勇み 尽しみしょり 尽しみしょり
結いや サーサー 尽しみしょーり シューラーヨー シューラー働らかな~
震災から2年後(平成9年)起きたロシアのタンカー船から重油が流れて日本海沿岸に漂着した海難事故は日本海の環境を汚すロシア船には日本中やきもきしていた中で活躍したのは阪神・淡路震災で得た経験と教訓が活かされたボランティアの方々であった。
ちょうどその時期(2月)不肖テツは労音(音楽鑑賞団体)の主催で新潟、柏崎コンサートの最中であった。
せっかくと思い朝早く起きて日本一夕陽がキレイと言われている柏崎の浜に行って重油を拾いに行った事を覚えています(さすが早朝だったので夕陽は拝めなかった)
雪が降って寒いという悪条件だったので重油は溶けにくく黒砂糖(クルサーター)の仕上がる前の飴状化したモノや固まってマイボール状になっているのもあった。
帰るときは雨靴の底は重油がべっとり付き落ちなかった。
新潟の市民会館も柏崎の文化会館も労音の動員力で超満員。幕が開きステージが始まる、調子のいいテツはMC(洒落の入った)を言っても会場からリアクションがまったく無い。面白くないのか?テツの言葉が会場に伝わっていないか?落ち込みそうになって・・・次第に会場の照明がフラットになったとき、会場のお客さんのほとんどがマスクをしていて、笑っても声をだしてもステージのテツにはマスクの性で聞こえなかったと言うことが途中で分かりホットしたことを覚えている。
当時日本中蔓延していたインフルエンザが猛威をふるっていてマスクは欠かせない状態であった。
そして数年後の今年は初めて聞くノロウイルスが流行るという。
天災は忘れた頃にやって来るというが、ウイルスも忘れた頃にやってくるのか?!
でも 1月17日はけっして忘れてはいけない!
そして まだ心が癒えない新潟中越地震、スマトラ沖の巨大な地震・津波は未曾有の規模で東南アジア島々
襲った大災害は被災地の惨状をTVから映し出される度に肝痛み(ちむやみ~)するのはテツ一人では無い筈。
阪神淡路の体験と教訓、ノウハウを活かして10年後、いや一日でも早く新潟、スマトラの沖沿岸諸島の復興した番組を見ることができると嬉しい。
その為にもテツは何ができるか 考えなくては・・・
痛ましい阪神淡路地区大震災から明日で10年目の節目を迎える。
その為 マスコミ各社は「震災から10年」という特別番組を組んで放送されているのはきっと風化させないようにと
思いを込めて企画されたであろう。
壊滅的な打撃を受けながら よくぞ立ち直った街の復興様子や人間模様を制作された内容の番組が多い。
しかし我々は阪神淡路の震災から学んだものや得たものも多かった。
それは人と人との「絆」であった。
悲惨な地震の後救われる思いがしたのは全国から多く集まったボランティア達や義援金、救助物資であった。
同じ年ボランティアの果たす役割が重要視され内務省の閣僚閣議了解により1月17日をボランティアの日、
1月15日~21日までを また防災とボランティア週間と制定されたそうです。
♪御万人(うまんちゅ)の為ん 我が為とぅ思てぃ 肝勇み 勇み 尽しみしょり 尽しみしょり
結いや サーサー 尽しみしょーり シューラーヨー シューラー働らかな~
震災から2年後(平成9年)起きたロシアのタンカー船から重油が流れて日本海沿岸に漂着した海難事故は日本海の環境を汚すロシア船には日本中やきもきしていた中で活躍したのは阪神・淡路震災で得た経験と教訓が活かされたボランティアの方々であった。
ちょうどその時期(2月)不肖テツは労音(音楽鑑賞団体)の主催で新潟、柏崎コンサートの最中であった。
せっかくと思い朝早く起きて日本一夕陽がキレイと言われている柏崎の浜に行って重油を拾いに行った事を覚えています(さすが早朝だったので夕陽は拝めなかった)
雪が降って寒いという悪条件だったので重油は溶けにくく黒砂糖(クルサーター)の仕上がる前の飴状化したモノや固まってマイボール状になっているのもあった。
帰るときは雨靴の底は重油がべっとり付き落ちなかった。
新潟の市民会館も柏崎の文化会館も労音の動員力で超満員。幕が開きステージが始まる、調子のいいテツはMC(洒落の入った)を言っても会場からリアクションがまったく無い。面白くないのか?テツの言葉が会場に伝わっていないか?落ち込みそうになって・・・次第に会場の照明がフラットになったとき、会場のお客さんのほとんどがマスクをしていて、笑っても声をだしてもステージのテツにはマスクの性で聞こえなかったと言うことが途中で分かりホットしたことを覚えている。
当時日本中蔓延していたインフルエンザが猛威をふるっていてマスクは欠かせない状態であった。
そして数年後の今年は初めて聞くノロウイルスが流行るという。
天災は忘れた頃にやって来るというが、ウイルスも忘れた頃にやってくるのか?!
でも 1月17日はけっして忘れてはいけない!
そして まだ心が癒えない新潟中越地震、スマトラ沖の巨大な地震・津波は未曾有の規模で東南アジア島々
襲った大災害は被災地の惨状をTVから映し出される度に肝痛み(ちむやみ~)するのはテツ一人では無い筈。
阪神淡路の体験と教訓、ノウハウを活かして10年後、いや一日でも早く新潟、スマトラの沖沿岸諸島の復興した番組を見ることができると嬉しい。
その為にもテツは何ができるか 考えなくては・・・
Posted by 大工哲弘 at
01:32
2005年01月13日
長寿邦沖縄と健康診断
今年 正月元旦に義理の祖母(宮良在)が亡くなった。
玉津マアチ(享年103歳・明治34年)。悲しむと言うより むしろ「お祝い」してあげたい気持ちになった。「アッパ~(オバァー)天寿を全うされ本当におつかれさん!」
子、孫、曾孫合わせると120人あまりも生(ま)り繁盛をしてる。
生憎 葬儀には行けなかったが、葬送儀礼も子や孫に囲まれて古式に執り行なわれたそうだ、
妻 苗子が持って帰って来た香典返しは紅白饅頭であった、
マアチオバァの長寿を紅白饅頭で肖った。
以前 「八重山生活誌」の著書 宮城文先生も100歳の長寿でお亡くなりになった時もお寺の葬儀に二千人の参列者が焼香終えるまで生前大好きだった八重山の民謡を聞かせたいとの配慮で
不肖テツが歌三線を演奏しバックミュージックをした覚えがある。
そのときも紅白の饅頭であった。
沖縄の長寿邦を長らく保ってきたのは 明治、大正を生き抜いたオバァーやオジィー達の元気印があったからこそ「長寿邦沖縄ブランド」が築いてきたのだ。その一人がまた亡くなったと思うと悲しい。
50ゥン歳なるまでテツは人間ドック成るものをまだ受けたことなかったが 昨年暮れ予定の仕事を済ませ松川にある琉生病院で思い切り受診することにした。
その結果が先日届いた。
①軽度肥満(BMIは軽度肥満で体脂肪も肥満)です。医師や栄養士による栄養指導や運動指導に基づくダイエットを始めましょう。
②高度なコレステロール血症を認めます。牛肉、豚肉、卵黄、ケーキ等を控えましょう。
早急に精密検査を受けてください。
③胃カメラにて異常所見を認める
④他 ・・・
⑤再検査を要する
かなり要治療(D)と言う判定がでた。
きびし~い !判定だ。想像はしていたが・・・年末、年始続いた暴飲暴食がきっと祟ったのだろうと思われる。
沖縄の肥満といれば 人間ドックを受けた三割以上の50代、60代の男性の二人に一人が肥満気味だという事が新聞に載っていた。
要因は米軍統治時代 いわばアメリカ世時代に内地に先駆けてファーストフードの洗礼を受けたため脂肪摂取量が他府県より増えて 口も肥え 体も肥え、貧困時代に覚えたマーサムン(美味しいモノ)の味は切り替えができないまま今日の食生活に至ったからだと考えられる。
そんな50、60世代の長寿施策が不十分なことから とうとう沖縄の男性平均寿命が全国26位に陥落したのはご存知の通りである。
そのまま行くと沖縄の長寿ブランドは完全に崩れ落ちるであろう。
まぁまぁ その沖縄長寿邦維持も大事だが まず今年は自分の健康管理を設計をしよう。
先ず暴飲の酒を避けよう、ファーストからスローフード化(長寿食)へとできるだけ改善しよう。
一歩でもオジィー・オバァーの長寿に近づくためにも人間ドックの判定を見てつくづく考えさせられた。
八重山の諺に 「長命(ながぬつ)ゆかぁ~ 長寿ど欲(ふ)さーる」
<ただ長い命より 健康長寿が欲しい>
なによりも大工ネットの皆さんと健康長寿でうた・三線がいつまでも弾ける事を楽しむためにも・・
といいつつ 今夜は東京から(原田悦志夫婦)との飲み会の約束があるな~
玉津マアチ(享年103歳・明治34年)。悲しむと言うより むしろ「お祝い」してあげたい気持ちになった。「アッパ~(オバァー)天寿を全うされ本当におつかれさん!」
子、孫、曾孫合わせると120人あまりも生(ま)り繁盛をしてる。
生憎 葬儀には行けなかったが、葬送儀礼も子や孫に囲まれて古式に執り行なわれたそうだ、
妻 苗子が持って帰って来た香典返しは紅白饅頭であった、
マアチオバァの長寿を紅白饅頭で肖った。
以前 「八重山生活誌」の著書 宮城文先生も100歳の長寿でお亡くなりになった時もお寺の葬儀に二千人の参列者が焼香終えるまで生前大好きだった八重山の民謡を聞かせたいとの配慮で
不肖テツが歌三線を演奏しバックミュージックをした覚えがある。
そのときも紅白の饅頭であった。
沖縄の長寿邦を長らく保ってきたのは 明治、大正を生き抜いたオバァーやオジィー達の元気印があったからこそ「長寿邦沖縄ブランド」が築いてきたのだ。その一人がまた亡くなったと思うと悲しい。
50ゥン歳なるまでテツは人間ドック成るものをまだ受けたことなかったが 昨年暮れ予定の仕事を済ませ松川にある琉生病院で思い切り受診することにした。
その結果が先日届いた。
①軽度肥満(BMIは軽度肥満で体脂肪も肥満)です。医師や栄養士による栄養指導や運動指導に基づくダイエットを始めましょう。
②高度なコレステロール血症を認めます。牛肉、豚肉、卵黄、ケーキ等を控えましょう。
早急に精密検査を受けてください。
③胃カメラにて異常所見を認める
④他 ・・・
⑤再検査を要する
かなり要治療(D)と言う判定がでた。
きびし~い !判定だ。想像はしていたが・・・年末、年始続いた暴飲暴食がきっと祟ったのだろうと思われる。
沖縄の肥満といれば 人間ドックを受けた三割以上の50代、60代の男性の二人に一人が肥満気味だという事が新聞に載っていた。
要因は米軍統治時代 いわばアメリカ世時代に内地に先駆けてファーストフードの洗礼を受けたため脂肪摂取量が他府県より増えて 口も肥え 体も肥え、貧困時代に覚えたマーサムン(美味しいモノ)の味は切り替えができないまま今日の食生活に至ったからだと考えられる。
そんな50、60世代の長寿施策が不十分なことから とうとう沖縄の男性平均寿命が全国26位に陥落したのはご存知の通りである。
そのまま行くと沖縄の長寿ブランドは完全に崩れ落ちるであろう。
まぁまぁ その沖縄長寿邦維持も大事だが まず今年は自分の健康管理を設計をしよう。
先ず暴飲の酒を避けよう、ファーストからスローフード化(長寿食)へとできるだけ改善しよう。
一歩でもオジィー・オバァーの長寿に近づくためにも人間ドックの判定を見てつくづく考えさせられた。
八重山の諺に 「長命(ながぬつ)ゆかぁ~ 長寿ど欲(ふ)さーる」
<ただ長い命より 健康長寿が欲しい>
なによりも大工ネットの皆さんと健康長寿でうた・三線がいつまでも弾ける事を楽しむためにも・・
といいつつ 今夜は東京から(原田悦志夫婦)との飲み会の約束があるな~
Posted by 大工哲弘 at
01:38
2005年01月10日
個人レッスン

一昨日から二日間みっちり?アルテ崎山教室で個人レッスンをやった。
(練習曲)
小濱節、
安里屋節
与那国ションカネ~
月夜浜節
とぅばらーま
直吉は今度で二度目の個人レッスンで
今年優秀賞を目指すと言う。
三線習う動機が沖縄ポップスから入った若僧が今は時間と金をかけてわざわざ
沖縄まで訪れてコアな八重山の島唄を真剣に習う姿勢は嬉しい限りだ。
前回と比べてかなりの手ごたえがあった。
将来が楽しみだ。
Posted by 大工哲弘 at
21:19
2005年01月10日
広島の柴田ママ夫婦も

広島で「うちなー屋」を営んでいる柴田夫婦も帰省しており、
お土産に広島名産新鮮な牡蠣、紅葉饅頭を頂いた。
柴田さんありがとうございました。
昨夜は贅沢な時間でした。
山里勇吉先生と記念写真
パヤオ泉崎店にて
Posted by 大工哲弘 at
21:05
2005年01月10日
2005年01月10日
2005年01月10日
見てェ~この新鮮なシャコ貝とミーバイ

安里勇が石垣でシャコ貝(八重山ではギイラと言う、沖縄本島ではアジケェ)が捕れたので
一緒の飲もうと 電話があり喜んで新年会口実に飲み会となった。
場所は泉崎にある、パヤオ泉崎店にて。
ミーバイ(はた)はパヤオ店から
Posted by 大工哲弘 at
20:50
2005年01月10日
2005年01月10日
2005年01月10日
2005年01月07日
2005年01月07日
与那覇朝大氏祝う集い

ジュネーブ国際平和遺産認定作家賞受賞の賞状
昨夜(6日)受賞を祝う集いがプラザハウスグローバルギャラリーで開催されました。
<あけもどろに屹(た)つ>
絵筆(ふで)を握って 52年 炎に挑んで 32年
こだわりつづけた シマの光と風と土がおりなす あけもどろの世界
はじまりは 光と陰が 交錯するコザ・・・
そして いま コザの息吹をともなって清(ちゅ)らく
華麗に 煌く 忌まわしい戦争から 60年の年に
おきなわのこころ・平和への熱き思いをこめてー
ー案内状の挨拶文からー
Posted by 大工哲弘 at
17:55
2005年01月07日
与那覇朝大氏祝う集い1

左から照喜名朝一(人間国宝・安富祖流) 玉城節子(玉城流翔節会) 高安六朗(芝居・35年前の民謡紅白歌合戦の司会をしたタレント) 大工(?) 上原直彦(琉球放送) 仲宗根正和(沖縄市市長) 玉城デニー(沖縄市市会議員)
Posted by 大工哲弘 at
17:37
2005年01月07日
2005年01月07日
2005年01月07日
与那覇朝大氏祝う集い4

<鏡割り>
与那覇朝大氏が5年前脳梗塞で倒れてから長らくご無沙汰していた仲間達が受賞を祝った。
久しぶりの公式の場に朝大さんの元気な姿を見て涙をながす人も多かった。
朝大先輩! ホントニ受賞おめでとうございます!
Posted by 大工哲弘 at
17:20
2005年01月04日
ナン?
阪神淡路地震が起きて 早いもので今年は10年目になるそうです。
昨年の中越地震と重ねてもう一度自然災害の恐ろしさを考えてみることにした。
正月休みでスマトラ沖地震のニュースが途絶えていたのは、成るだけ正月は暗い情報は避けようとの配慮か?
三ケ日が済むと刻々と流れてくるニュースに またまた驚かされてしまった。
とうとう津波での死者が14万余り、日本人の被害者も30名を越してしまったそうです。この数字は沖縄の沖縄市と
西原町の人口を併せた数字で、その人口がすっぽり居なくなったことを考えると恐ろしい規模の事故といえる。
八重山では「津波」のことを<ナン>という。また「地震」は<ナイ>と呼んでいる。
「ナン」は波から来て「ナイ」は「ねゆり」→「地」の意で古語に「な」に「ゐ・居」の加わった語、原義は「大地」
であるという。-宮良泰平ー八重山の方言ーから-
この「ナン」が1771年(明和8年)4月24日午前8時頃 石垣、宮古を怒涛の如く襲った「明和の津波」は
多くの溺死者をだした。八重山はそのうちでも約一万人近く、その当時八重山の人口が2万人だったから想像に絶する。地震のマグチュード(M)は7,4とそれほどでもない規模だったが、それ以上に海底地すべり現象により起きた津波は歴史に残るウフ・ナン(大きな津波・8メートル)となった。
いまでも石垣島のいたるところに大きな石があるのは津波によって打ち上げられた石だ。それから石垣島というな名が付けられたのかな~?
またその津波によりミンナ餓死者が多く出たので「いしがし」「いしがき島」になったとの説もある。。。。
テツも幼いとき祖父から聞いた話は、明和地震が来た直後、前の浜の潮はものすごく引き竹富島の近くまで陸続き状態になったそうだ。ちょうど旧暦の3月と重なり島の人々は皆潮いがり気分で海でたそうだ、その潮引きがナンの前兆だったということを知らずして貝類や魚を取る人達がほとんど被害にあったそうです。
今回のスマトラ沖の津波もそれに似て リゾート地のきれいな海の潮が引いたのを機に海に繰り出した観光客が被害にあっている。
インドネシアの古い言葉にも「水引いたら逃げよ」<スモン>との言い伝えがあり、それを守った島の住民は助かったそうだ。それに似て八重山でも地震がきたら「真っ先に海を見よ」と言ういわれがあるそうです。(後で宮城信勇先生に聞きました)
タイでは象が津波を予告して激しいなき声で住民を救ったという話を聞いたりすると島の慣わしや動物達が自然の営みの尊さを現代の人たちに何かを教えているようだ。
インタネットやひまわりの天気予報でもそのことは教えてくれない。
八重山は明和の津波後、新しい村を作ろう、人口を増やそうと新村政策が始まり人頭税と併せて数々の悲劇を生んだ八重山の歴史の運命はここから始まるのである。
前にも書いたがそれから「世や直れ」と言う言葉が生まれ ほとんどの八重山の歌の囃子として唱えるようになった。
一日でもはやく新潟やスマトラ沖沿岸諸島の復興を祈る。
昨年の中越地震と重ねてもう一度自然災害の恐ろしさを考えてみることにした。
正月休みでスマトラ沖地震のニュースが途絶えていたのは、成るだけ正月は暗い情報は避けようとの配慮か?
三ケ日が済むと刻々と流れてくるニュースに またまた驚かされてしまった。
とうとう津波での死者が14万余り、日本人の被害者も30名を越してしまったそうです。この数字は沖縄の沖縄市と
西原町の人口を併せた数字で、その人口がすっぽり居なくなったことを考えると恐ろしい規模の事故といえる。
八重山では「津波」のことを<ナン>という。また「地震」は<ナイ>と呼んでいる。
「ナン」は波から来て「ナイ」は「ねゆり」→「地」の意で古語に「な」に「ゐ・居」の加わった語、原義は「大地」
であるという。-宮良泰平ー八重山の方言ーから-
この「ナン」が1771年(明和8年)4月24日午前8時頃 石垣、宮古を怒涛の如く襲った「明和の津波」は
多くの溺死者をだした。八重山はそのうちでも約一万人近く、その当時八重山の人口が2万人だったから想像に絶する。地震のマグチュード(M)は7,4とそれほどでもない規模だったが、それ以上に海底地すべり現象により起きた津波は歴史に残るウフ・ナン(大きな津波・8メートル)となった。
いまでも石垣島のいたるところに大きな石があるのは津波によって打ち上げられた石だ。それから石垣島というな名が付けられたのかな~?
またその津波によりミンナ餓死者が多く出たので「いしがし」「いしがき島」になったとの説もある。。。。
テツも幼いとき祖父から聞いた話は、明和地震が来た直後、前の浜の潮はものすごく引き竹富島の近くまで陸続き状態になったそうだ。ちょうど旧暦の3月と重なり島の人々は皆潮いがり気分で海でたそうだ、その潮引きがナンの前兆だったということを知らずして貝類や魚を取る人達がほとんど被害にあったそうです。
今回のスマトラ沖の津波もそれに似て リゾート地のきれいな海の潮が引いたのを機に海に繰り出した観光客が被害にあっている。
インドネシアの古い言葉にも「水引いたら逃げよ」<スモン>との言い伝えがあり、それを守った島の住民は助かったそうだ。それに似て八重山でも地震がきたら「真っ先に海を見よ」と言ういわれがあるそうです。(後で宮城信勇先生に聞きました)
タイでは象が津波を予告して激しいなき声で住民を救ったという話を聞いたりすると島の慣わしや動物達が自然の営みの尊さを現代の人たちに何かを教えているようだ。
インタネットやひまわりの天気予報でもそのことは教えてくれない。
八重山は明和の津波後、新しい村を作ろう、人口を増やそうと新村政策が始まり人頭税と併せて数々の悲劇を生んだ八重山の歴史の運命はここから始まるのである。
前にも書いたがそれから「世や直れ」と言う言葉が生まれ ほとんどの八重山の歌の囃子として唱えるようになった。
一日でもはやく新潟やスマトラ沖沿岸諸島の復興を祈る。
Posted by 大工哲弘 at
18:24












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